ニース,金星の月, 1672-1892 1672 年、当時の傑出した天文学者の1人である ジョバンニ・ドメニコ・カッシーニは金星 の近くに小さなお伴の星があることに気づきました。金星に衛星があるなんて? カッシーニは自分の観測を公表しないことにしましたが、 14年後、1686年にこの天体を再発見し、彼の雑誌に発表しました。この天体は金星の約4分の1の大きさと見積もられ、金星と同じように満ち欠けをしているようでした。後にこの天体は1740年にジェームス・ショート、1759年にアンドレアス・メイヤー、1761年に J. L. ラグランジュ (ラグランジュは衛星の軌道面は黄道に垂直であると発表した)と他の天文学者たちにも観察されました。 1761年にこの天体は5人の天文学者によって合計18回観測されました。 1761年6月6日のショウテンの観測は特に興味深いものです。彼は金星の太陽面通過を観測し、金星が一方側に小さな黒い点を伴っていることを見つけました。しかしイギリス、チェルシーのサミュエル・ダンも太陽面通過を観測しましたが、このような点は見つけていません。 1764年、2人の観測家によって8回の観測がされました。他の観測家もこの衛星を見つけようと試みましたが、だれも見つけることはできませんでした。 今や天文学会に論争が起こりました:数人の観測家は衛星が見えたことを報告し別の数人は努力を傾注したが見つけることはできませんでした。 1766年、ウイーン天文台台長ファーザー・ヘルは衛星の観測すべては光学的なまぼろしである――金星の像があまりにも明るいので目の中で反射し、望遠鏡にもどった光が小さな第二の像を作りだした――と断言する論文を発表しました。一方、観測は事実であると断言する論文を発表した他の天文学者たちもいました。ドイツのランベルトはベルリン天文学誌に1777年衛星の軌道要素を発表しました。それは平均距離は金星直径の66.5倍、軌道周期は11日3時間、軌道傾斜角は64度というものでした。この衛星は1777年の金星の太陽面通過時に見えるだろうと期待されました。(ランベルトがこれらの軌道要素を計算するにあたって間違いを犯したのは明らかです。金星の半径の66.5倍、これは金星からの距離は私たちの 月と地球の間の距離とはぼ同じです。このことは軌道周期が11日、つまり私たちの月の軌道周期の3分の1よりやや大きい程度ということとは全く一致しません。金星の質量は地球の質量より若干小さいからです。)

1768年、衛星の観測がコペンハーゲンのクリスチャン・ホレボウによって再度行われました。さらに3回の探索が行われました。そのうちの1回は高名な天文学者の一人である ウイリアム・ハーシェル によって行われました――3回の探索のどれでも、いかなる衛星も発見されませんでした。このゲームにずいぶん遅れて参加したドイツのF.ショールは、 1875年に出版した本でこの衛星の存在の有無をくわしく調べました。

1884年、ブリュッセルの王立天文台の前台長M.ホゾーは別の仮説を考えました。手に入れた観測データ解析からホゾーは金星の月は2.96年もしくは1080日ごとに金星に近づくように見えると結論しました。ホゾーはそれは金星の月ではなく、太陽の周りを283日ごとに回り、それゆえに金星と1080日ごとに合になる惑星自身であると考えました。ホゾーはこの惑星をニースと名付けました。誰もその顔のベールを上げることができなかったサイスの謎の女神にちなんた名前です。

1887年、ベルギー科学アカデミーはすべての報告された観測をそれぞれ詳細にわたって検討した長い論文を発表しました。衛星のいくつかの観測は金星の近くの実際の恒星でした。ロードキヤーの観測は特に点検されました。彼は連続してχ Ori, M Tau, 71 Ori, νGem にだまされていたのです。ジェームズ・ショートは実際は8等より暗い星を見ていました。ルベリエとモンターギュによる観測もすべて同じように説明されました。ランベルトの軌道計算もくつがえされました。 1768年のホレボウによる最後の観測はζ Libによるとされました。

この論文が発表されてから、新しい観測が1回だけ報告されています。初期に金星の衛星探索を行い、検出に失敗したことのある男によって報告されました:1892年8月13日、 E. E. バーナード は金星のそばに7等の天体を記録したのです。バーナードによって記録された位置には恒星はなく、バーナードの視力は優秀であることは当時有名でした。彼が何を見たのか今もまだわかりません。それは記録されてなかった小惑星だったのでしょうか?それとも、たまたま他の誰も見ることができなかった短期間の新星だったでしょうか?
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